tatsuro1973の日記

歌舞伎、文楽、落語を中心に古典芸能について綴ろうと思います。それと日々の暮らしについてもです。

忠臣蔵九段目

11月の文楽忠臣蔵の通しで八段目から最後十一段目までかかる。

なかでも九段目は注目している。

九段目の山科の一面の雪は、妹背山の山の段の桜と並んで風情があっていい。

これがかかるうちはまだまだ日本人として自信が持てる。

九段目は忠臣蔵十一段の語りの中でも別格であるし、義太夫のなかでも屈指の作品である。人はこれを超弩級戦艦に例える人もいるし、浄瑠璃素人講釈の杉山茂丸は九段目を大王と例えてこの作品のむずかしさを述べている。

歌舞伎では東京ではまづお目にかかれない。十年に一度あるかないかで、通しでも九段目はかからない。

上方は藤十郎がよくかけているので折に触れて見ている。上方では通しでも九段目はかかるのでお目にかかるチャンスは多い。

戸無瀬は、自分も華やいだ気分でいる。だから小浪がお石に冷たくされると、自分のことのような気持ちになって反駁する、また後に、祝言させると言われると一緒になって喜ぶ。戸無瀬と小浪と一体の気持ち、それが肚だ。台詞もお石よりもひとテンポ速く言わないといけない。

鴈治郎芸談より

 八代目綱太夫が九段目についてかく述べている。

九段目は登場人物をテンポと間で語り分けるものであるとこれが九段目の難しさの所以であるのかもしれない。

九段目は文楽では頭は老女形で思慮深い女性ではあるが、同じ老女形の定高、政岡に比べると思慮深さというよりは華やかさ、若さが見えてこないと小浪と一体にはなれない、ドラマは切り開かれないと感じる。

若さと華やかさは求められても、戸無瀬は刀を二本差す。これは夫本蔵の名代を意味する。着付けは緋色。これは政岡も同じであるが意志の強さを意味する。

この緋色の着付けあって、由良助の家の小浪を手にかけんとすることもうなづける。

戸無瀬は継母である。実の母親以上に小浪には母親であり続けなければならない。

前半は戸無瀬、後半は本蔵の芝居になってくる。

文楽では物語の進行に合わせて淡々と進むが、歌舞伎では、戸無瀬がお石に小浪と力弥との祝言を断られ、絶望にくれて、小浪を殺して自分も死なんと覚悟を決めて、刀をついてから、竹本の「鳥類でさえ子を思うに、咎のない子を掛けるは」のあたりから、お石から祝言の許しをえて、喜び合うあたりは糸にのって派手に演じていくのは好きなところです。藤十郎はたっぷりとここは演じてくれるが、玉三郎は淡々と演じていく。

この辺は東西の芸の違いが出てきて興味深いです。

あと小浪の祝言をめぐっての由良助の妻、お石のやり取りはみどころです。

戸無瀬の動にお石の静。

あい対峙しているが肚は同じでなければと感じている。

自分の中では戸無瀬は女形のなかでも第一の役として考えている。

後半は本蔵の芝居になっていく。

本蔵は家のために、主人のために師直に賄賂をおくって桃井の家を守ったが、それが武士としてあるまじきこととして批判される、忠臣蔵、歌舞伎全般にも言えることであるが武士への皮肉を感じる。

武士とは何かと問いかけている。

後半も終盤に由良助が出てきて、本蔵の腹の内を説明していくが、ここも戸無瀬お石同様に、由良助本蔵ともに同じ肚がなければ忠臣蔵のテーマの武士の忠義、論理への批判が見えてこない。

本蔵の役柄のゆえか、歌舞伎ではなかなか人を得ない。

富十郎でも本蔵は若いなあと感じた。

仁左衛門が演じるようになってようやくこの役に人を得たと感じる。

自分のなかでは忠臣蔵九段目は好きな演目でもあるし、重量感を感じされる芝居です。