tatsuro1973の日記

歌舞伎、文楽、落語を中心に古典芸能について綴ろうと思います。それと日々の暮らしについてもです。

八月納涼歌舞伎 伽羅先代萩

f:id:tatsuro1973:20190815114740j:plain

先代萩

八月の歌舞伎座 納涼歌舞伎に先代萩がかかる。

今回は御殿と床下がかかる。

先代萩の政岡は歌舞伎の女形においては第一の役とされるほどの重要な役です。

武家の女房の役は他の歌舞伎の女形の役と比べると格と品位が求められてくるので役の難易度が上がります。

今回七之助が政岡を演じることは女形としてトップランナーとして活躍することを意味します。

七之助の政岡、千松に勘太郎 鶴千代に長三郎 八汐と仁木弾正に幸四郎 沖の井に児太郎 栄御前に扇雀と若手を中心とした充実したラインナップです。

この頃は若手が新作を中心に活躍が目立つが先代萩などの古典もバランスを見ながらやってほしい。古典があっても新作であり逆もまたしかりです。

facebook演劇評論家の犬丸治さんの解説を読んでいると先代萩で政岡の見せ場の一つである飯焚きをでるとのことです。


www.facebook.com

飯焚きがカットされるのは犬丸さんによると竹の間をつけてやるため時間の都合でカットされているとのことです。竹の間がついてくると八汐や沖の井が描かれていて政岡の取り巻く世界が見えてくるのであれば物語全体からみるとわかりやすいです。

この先代萩玉三郎藤十郎で見ています。映像だと六世歌右衛門で見ています。

藤十郎でみている、上方の演出 梅玉型による 東京の歌右衛門型の演出では見ているものとしてだれてしまうところがあります。

上方の演出によると歌右衛門型による袱紗の扱い 飯焚きの丁寧な扱いはなく、あっさりとしたもの米を研ぐにしても歌右衛門型の茶筅を使って研ぐのではなく、手を使って手早くやる。文楽もまたしかりです。

東京の演出のやり方で行くと飯焚きの場面、千松や鶴千代のからみなど丁寧にやっていくので義太夫の原曲では足りずにメリヤスという曲を入れて補っていったりします。

そのためか上方の演出を見ているものとしてはくたびれてしまうことがあります。

なぜくたびれてしまうのかとこの先代萩をみるたびに疑問にもっていましたが犬丸さんの解説で少し見えてきた感じがしました。

飯焚きの政岡は武家女房としての貫目を見せるために茶道の作法にのっとってやっていく、横では千松と鶴千代がじゃれているところをたしなめると、段取り 手順とやるべきことが多い。それでいて政岡は御殿において味方がいない孤立な状況で若君を守っていかないといけない、その心根も飯焚きのなかに垣間見せないといけない。

そのバランスがとれていないからくたびれしまうのではと犬丸さんは解説している。

それだと納得がいくと感心した。

東京の演出だと政岡は飯焚きのあとに八汐に千松を殺されて、悲嘆にくれるくどきの場面が芝居が進んでいくが、どちらかといえば淡々と進んでいく感じがします。

これは物語を中心にとらえて芝居を進めているためではないかと考えます。

上方になるとくどきの場面になると政岡がぱっと光を放ったかのような動きをみせます。文楽の人形振りをもとに義太夫に合わせて派手にいきます。

上方は芝居の流れにおいてメリハリが利いていて緩急をつけるので見ているほうは疲れることなく楽です。

先代萩では上方と東京では舞台の装置が異なってきます。

東京ですと舞台装置は御殿の作りになるのですが上方は障子屋体になります。

上方の障子屋体になりますと千松が八汐に殺される場面になりますと鶴千代を障子のなかに隠します。これだと本文の御殿のなかで政岡に味方するものは誰もおらず、孤立な状況であることが分かります。また政岡の鶴千代を身を挺して守らんとする心根がはっきりと見せることができます。東京の演出になりますと鶴千代は沖の井に預けてます。

これだと政岡の鶴千代への思いがややぼけてしまう感じは否めません。

政岡が千松の死骸をみて悲嘆にくれる場面、音楽劇でいくと曲にのってしかるべき、本文でいくと曲にのるべきではないといろいろ意見がありそうです。

床下は仁木弾正が鼠に化けて連判状を奪って また仁木が人に戻って悠々と花道を歩いていく。そこに床下に潜んでいた荒獅子男之助が鼠を捕り損ねて「合点だ」

床下は時間としては短いけれども歌舞伎の花道をつかった演出、男之助の荒事のセリフと歌舞伎のエッセンスを見ることができる。

男之助のセリフ、荒事調にいうのですがこれが案外難しい。